練習してるうちにだんだんワシも008スキになってきました。
でも何も見ないで描くとやっぱり似ないですねー。



とかいいながら何枚描いてるのかなー。

図書館で009の本借りて読んでます。全部は読めないのがつらいところですが、シリアル入り豪華画集まで蔵書にあってびっくり。


んで、朝日ソノラマ刊の「009その世界」にあった、石ノ森センセのあとがきを読んでちょっと考えてしまったです。

009はもう自分のものじゃなく、読み手のものだ という表現があって、
それがなーんか、字面どおりの、読者の皆さんへの好意的な意味…じゃない気がしました。

「読者」が 完結させる気になれなかった理由なのかなあー…。

何か描くたびに反響がおそろしいことになってたのかもなあ
そういう記述は他にも見受けられますし。


天使編も神々との戦いもなんかこう 似たようなところで終ってるのは、自分の描きたいラストを、どう描いても受け入れられないんじゃないかという懸念があったんかなー。

正直、この「神との対決」という筋書きは何年たっても突拍子もない風味が抜けない気がしています。しかし最初の筋書きが海底ピラミッド編に近いものだったのなら、まだそれまでの話の流れに親和する結末にいったんじゃないのかな(あの話もスペオペ風味で料理不足。天使編の二の舞を避けようとしてとにかくカタつけましたって印象なのだが)とか
いやいやそこで読者に受ける形で描かれてたらちんまりおさまっただけやないか、という考えもわいてしまうし。

やっぱ ココロの問題?

サイボーグを題材にしていくと、体だけ強くなってもココロが置いてけぼりになるのをどうするの ってとこを描かなくちゃいけなくなってくるっす。
そこがおもしろかろうに、
話の出だしからすでに、彼らはうまくやっている。
改造された体に苦しむけれども精神に壊れが生じるような柔な神経してません。そうでなくては話がすすまないんだけどね。


こんくるーじょんの「超戦士」てのはいったいなんのために。とたくさんの疑問符飛ばしながらでしか見られないのは、見る側に問題があるのでしょうか。普通な言い方をするなれば、そのへんのね、ココロを体に見合うように育てるってぶぶんの掘り下げがうまくできてないんだとおもう。
ココロを強化して能力が高まったというには便利さがましましたという感じしかしないのだ…。


イワンに新しい力を授けて欲しかったのは作者自身かもなー等とエラソな事を思ってました。